仰木彬監督と近鉄バファローズの思い出。
近鉄バファローズの元監督・仰木彬さんが亡くなられたことは昨日の日記で触れたが、その後知り合いから「ニュース見たか」と電話がかかってきた。何もいう言葉も出なかったのですぐに話は終わった。
仰木監督がバファローズの監督になったのは88年シーズンからである。僕が近鉄バファローズのファンになったのもその年だった。88年というのは東京ドームの出来た年である。この年、東京ドームで12球団のトーナメント戦が行なわれていて、僕が観戦したのは決勝戦の巨人−西武の試合だった。だが、そのあとで「練習試合」として行なわれたのが南海−近鉄の試合だった。この試合は当日のチケットを持っていた人はそのまま見ることが出来た。だから結構ネット裏に行った人は多かった。僕は友人といたのだが、とりあえず外野スタンドに行ってみようということになった。「南海は怖そうだから近鉄にしよう」ということになって、近鉄側に行った。そこには少ないながらも応援団がいて、一生懸命な応援をしていた。憶えていたのは近鉄の応援団が南海の応援団に向かって「お互い西武には勝とうなぁ〜」と叫んだことだった。そして、その試合で特大のホームランを打ったのは、確かオグリビーだったはずだ。その時間が僕はとても楽しかった。それ以降、すごく近鉄バファローズが気になっていた。そして、その年の秋、あの「10・19」でリーグ優勝を逃した。それで、僕はもう離れられなくなったのだ。当時の西武や巨人の野球は華やかだったし、強かった。でも、僕は近鉄の「いてまえ」の野球が好きだった。
仰木監督はその年から92年まで監督として指揮を執った。89年にはリーグ優勝し、後1勝で日本一というところまでこぎつけながら負けた。翌朝、同じクラスの巨人ファンが、わざわざ僕の前まで来て万歳三唱をした苦々しい思い出も忘れがたい。
その後、オリックスの監督になってイチローを見出したのは、ニュースとかでいっぱい流れているからここでは書かない。
昨年の球界再編劇のなかで、大阪近鉄バファローズは楽天とオリックスに引き裂かれてしまい、仰木監督として再び采配を振るうことになったのだが、僕も新球団の指揮官はこの人しかいないだろうと思っていた。
週刊ベースボールの別冊「さらば大阪近鉄バファローズ」の中で、仰木監督は「新球団は近鉄と違う球団なのか」という問いに「私は違うとは思いませんね。(中略)それぞれの歴史を継承していきたいと思います」と答えている。
思えば、仰木監督は生涯パ・リーグの人だった。もしかしたらイメージの低下した時だからこそ、パ・リーグのために命を張ってまで指揮を執る決意をしたのかもしれない。オリックスの「間の悪さ」もあって、僕は今でもこの球団を応援できないでいる。近鉄時代に行った試合は東京ドーム・西武・川崎と全部ビジターだった人間が言っても仕方ないのかもしれないが、この世からまた「近鉄バファローズ」が消えてしまったような気がして、今の僕はどうしようもない淋しさを感じている。