「夢を与える」の話。

夢を与える「インストール」も「蹴りたい背中」も読んでいないので、綿矢りさ作品に関する予備知識ってものはほとんどありません。だけど、「蹴りたい背中」が芥川賞を取って、作品の掲載された文藝春秋がバックルームの台に放り出してあったのをパラパラと読んだ時、感覚が合いそうに思えた事が記憶に残っています。もっとも、「夢を与える」がアイドルの話じゃない物語だったら、スルーしていたかもしれません。
 本は先日大阪に行ったときに買いました。それ以降、短い空き時間に読んでいたんですけど、展開が速くなってきた後半から「これは一気に読みきらないとヤバイ」と思えてきました。それで仕事のあとで喫茶店に入って一気に読了しました。で、読み終えるとすごくやり切れない、何か切実な気持ちになって、大きなため息が出てしまいました。
 ハロヲタがこの小説を読むと、どうしてもあの人の問題を想起せずにはいられないでしょう。近いうちに戻ってくるかもしれない彼女とか。突然いなくなってしまった彼女とか。読む前はいずれ戻ってくると思っていたところもありました。でも、今は戻ってこなくてもいい、と思っている自分がいます。最近「帰ってくるなら会見をしてどうのこうの」という主張をする人を巡回先とかで見かけると、それは、どれだけもっともな理由*1をつけても、最後のシーンの記者のやっていることと一緒に思えてしまいます。要は「あの時あそこに誰がいてどんなことをしてどうなった」を知りたいんですよ私。に見えてしまうんです。

 「人間の水面下から生えている、うまれたての赤ん坊の皮膚のようにやわらかくて赤黒い、欲望にのみ動かされる手」と手を握った、彼女はそういう風になって帰ってくる。多分ですけど。
 そういう彼女から、僕たちは以前のような夢をもらえるんでしょうか。
 正直言って、わかりません。

*1:例えば「後からこういう問題をおこさないようにするため」とか